shigechi-64's diary

自由・自主・自立・自尊

椅子

今日とあるカフェで座った椅子がものすごく座りにくくて難儀しました。

背もたれが垂直で、しかも高さがあるので後ろに上体をそらす姿勢がとれない。一定の姿勢でじっと我慢できない自分にはすごく辛かった。座面も木なので固いし、回転早めるためにわざとそうしてるのかしら?と思ってしまいました。

デスクワーカーにとって椅子は大事です。

デスクワークには体に合った椅子が超重要!はてなデザイナーに人気の椅子を調査してみました - Hatena Design Group

安部公房『砂の女』

読みました。

閉鎖的なコミュニティと、そこから抜け出したいけど抜け出せない、でも安住してしまえばそれはそれで安らかに暮らせないこともない、見えない牢獄のようなものを描いているのでしょうか。比喩の表現が豊富で、砂のざらっとした感覚が伝わってくるようでした。

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

内田樹『日本辺境論』

読みました。

これは非常におもしろかったです。トビラに読み出したら止まらない、とありましたが本当に止まりませんでした。日本論好きならば読んで損はないと思います。

個人的に最終章の日本語について書かれているくだりがおもしろかったです。日本語ってハチャメチャだなぁとよく思っていますが、もしかしたらこれでいいのかもという気分になりました。この本を読む前に「日本語が亡びるとき」も読みましたが、この特殊すぎる言語は確かに守っていくに値するものかもしれないと今は思っています。

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

「醤油の話」

鎌倉時代のお坊さんで覚心という人がいました。この人はあらゆる仏教の宗派を生涯かけて渡り歩いた人らしいですが、それほど勉強した割にはのちの仏教に影響を与えるほどの業績を残しませんでした。

ただ味噌が好きで、特に宋に留学していた頃に食べた味噌の味が忘れられず、日本でも同じものを作りたいと思いました。
炒った大豆と大麦のこうじに食塩を加えて桶に入れ、ナスや白瓜などをきざみこみ、密閉して熟成させるのです。これは現在「きんざんじみそ」と呼ばれるなめ味噌の元祖ですが、この味噌桶の底に溜まった液で物を煮ると美味であったらしく、これが醤油の原型となったそうです。

私がおもしろいとおもうのは、覚心の人生である。かれは愚直なほどに各宗の体系を物学びしたが、古い宗旨の中興の祖にもならず、また一宗を興すほどの才華もみせなかった。
しかし以下のことはかれの人生の目的ではなかったが、日本の食生活史に醤油を登場させる契機をつくった。後世の私どもにとって、なまなかな形而上的業績をのこしてくれるより、はるかに感動的な事柄のようにおもわれる。

6ページくらいの短い話ですが、人の人生というのはおもしろいなぁと思いました。

司馬遼太郎が考えたこと〈12〉エッセイ1983.6~1985.1 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈12〉エッセイ1983.6~1985.1 (新潮文庫)

Queen『’39』

Queenの「'39」という曲があります。

昔からそれなりに好きな曲だったんですけど、そこまで印象の深い曲ではなくて、フォーク風で素朴な感じの曲だなーくらいの印象で、歌詞の内容もよく判っていませんでした。

それが、実はSFというか浦島太郎というか、そういう感じの内容だったということを最近初めて知りました。宇宙旅行に出かけて1年経って帰ってみたら地球では100年経ってて愛する人はもういない的な。

そう思って聴くとこれがなんとも言えず切ないというか郷愁を誘うというか、かなり印象が変わってしまいました。(良いほうにですが)

洋楽は歌詞の意味も判らず曲の感じだけで好きかどうかを決めてしまっていることも多いんですが、歌詞もやっぱり大事だなあということを改めて感じたのでした。

「オペラ座の夜」<最新リマスター・エディション>

「オペラ座の夜」<最新リマスター・エディション>

山本七平『「空気」の研究』

読みました。

「空気を読めない人」というのは日本においては言われたくない言葉のかなり上位に入る言葉だと思います。しかし、集団ぐるみ破滅に向かって突っ走っているときに、それを救うのはまさに「空気を読めない人」なんだろうと思います。この本では「水を差す」人と表現しています。

空気を読むことによって物事が円滑に進む場合があるというのは事実ですが、同時にある種の息苦しさの原因にもなります。空気の読めない人は社会には一定数必要で、またそれを許容できる社会のほうがより健全ではないかと思います。

「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の「超能力」かも知れない。何しろ、専門家ぞろいの海軍の首脳に、「作戦として形をなさない」ことが「明白な事実」であることを、強行させ、後になると、その最高責任者が、なぜそれを行ったかを一言も説明できないような状態に落し込んでしまうのだから、スプーンが曲がるの比ではない。こうなると、統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的論証も、一切は無駄であって、そういうものをいかに精緻に組みたてておいても、いざというときは、それらが一切消しとんで、すべてが「空気」に決定されることになるかも知れぬ。とすると、われわれはまず、何よりも先に、この「空気」なるものの正体を把握しておかないと、将来なにが起るやら、皆目見当がつかないことになる。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))