「醤油の話」

鎌倉時代のお坊さんで覚心という人がいました。この人はあらゆる仏教の宗派を生涯かけて渡り歩いた人らしいですが、それほど勉強した割にはのちの仏教に影響を与えるほどの業績を残しませんでした。
ただ味噌が好きで、特に宋に留学していた頃に食べた味噌の味が忘れられず、日本でも同じものを作りたいと思いました。炒った大豆と大麦のこうじに食塩を加えて桶に入れ、ナスや白瓜などをきざみこみ、密閉して熟成させるのです。これは現在「きんざんじみそ」と呼ばれるなめ味噌の元祖ですが、この味噌桶の底に溜まった液で物を煮るとそれはうまかったらしく、これが醤油の原型となったそうです。

私がおもしろいとおもうのは、覚心の人生である。かれは愚直なほどに各宗の体系を物学びしたが、古い宗旨の中興の祖にもならず、また一宗を興すほどの才華もみせなかった。
しかし以下のことはかれの人生の目的ではなかったが、日本の食生活史に醤油を登場させる契機をつくった。後世の私どもにとって、なまなかな形而上的業績をのこしてくれるより、はるかに感動的な事柄のようにおもわれる。

6ページくらいの短い話ですが、人の人生というのはおもしろいなぁと思いました。

司馬遼太郎が考えたこと〈12〉エッセイ1983.6~1985.1 (新潮文庫)

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